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いとし子(6)爺様の古ラジオ~源流の水音~ [オーディオのいとし子たち]

第一歩
この古ラジオは、1931年(昭和6年)前後に作られました。
日本のラジオの本放送が開始されたのが1925年(大正14年)なので、その僅か6年ほど後に発売された一般市販のラジオです。

「放送」というものをほとんどの人が知らない、その概念すらなかった時代に始まった「ラジオ放送」。
その後の社会を大きく変えていくことになる「マスメディア」の出現です。
そういった時代背景を勘案し、改めて写真1や2を見直してみてください。
その姿・格好、そして作り。
本当に驚きました。
現代の真空管アンプのデザインの目線で見ても、第1級の秀作だと思います。

このラジオの音、良くありません。
良くない原因の8割方は、マグネチック・スピーカーの音の悪さにあります。
ラジオのオーディオ増幅部は2段増幅であり、まあまあの音がしています。
もっといい音で聞きたい、いい音を出してみたい。
この音の悪いラジオから、「オーディオ」の第一歩が始まったのだと思います。

ダイナミック型スピーカーの実用化、ラジオのチュナー部の音質改善、オーディオ信号増幅部の低歪化、大出力化など。
時代とともにラジオの音質はどんどんよくなっていきました。
オーディオの歩みの第一歩。
爺様の古ラジオの時代がオーディオの源流、つまり、「オーディオ」の音の原点ではないか。
そういう気がします。

今日の日記は、私の祖父が静岡の田舎で聴いていた(おそらく辛うじて受信していた)「爺様の古ラジオ」について綴ります。

コンドル・シャシー前面(縮ト)DSCN0033.jpg

<写真1:木のケースから取り出したシャシーの修理前の前姿>
*底板の数本のビスを外せば中身をそっくり取り出せる。どうですか、なかなか立派でしょう。なんだかラジオって、後年になるほどペラペラな作りになっていくみたい**





大きなのっぽの古時計・・・
などもあったが、時計にはあまり関心がなかった。
もう何十年も昔のこと、祖父の家を整理した。
そのとき、保全しなければ、との思いで「大きな、リッチ(風)の、古ラジオ」を我が家に連れて来た。

この頃の「ラジオ」、綴り字は「ラヂオ」なんですね。

この手のラジオ、散逸させてはならない「文化遺産」である。
なにしろ真空管が使ってある。
もうそれだけで重要文化財級の骨董品になる(私には)。
そのくせ、屋根裏部屋にしまい込んだきり、その存在すら忘れて、ン10年。
そしていつもの癖、STAX ELS-8Xみたいに、何かのきっかけで急に整備に取り掛かった。
それは10年以上前のことであるが、さらにおまけがついた。
「ラジオ」の面白さにハマってしまった。
今度は内外の古ラジオ集めが始まった。


立派な作り
きっかけが何であったのか思い出せない。
急に整備する気になり、屋根裏から下して上ぶたを開けて驚いた。
内部は埃もほとんど積もっておらず、きれいな状態であった。
それよりも、作りが立派であることに目を見張った。
これほどしっかりと作られているとは気が付かなかった。
以前に見た時は、琴線をスルーしたのだろう。
いったい何者なんだろう、このラジオ。
いつ頃の製品で、メーカーはどこだろう。

コンドル・シャシー背面(縮ト)DSCN0029.jpg

<写真2:取り出したシャシーの後ろ姿>
**どうですか、この美術工芸品のような造形美。しっかりした作り。写真手前の3本の銅色の筒は真空管のシールドケース。真空管に被せてある。真空管は全部で5本使われている。左端の箱は電源トランス。中央の箱にはバリコンが入っている**



ラジオのシャシーに「美術工芸品」の香りが漂う。
普段は人目につかないラジオの臓物を、これほど美しく仕上げるセンスが、またその余裕が、この当時にあったのだろう。
いったい、いつの時代のものなのか。


この古ラジオ、身分証明書の銘板あり
身元の手掛かりはたくさんあった。
電源トランスの上に、「身分証」の銘板が打ち付けてある。
シャシーの右奥背面には「THS RADIO」のロゴの刻印もある(写真7)。
さて、こんな古ラジオの情報は、どこを調べれば出てくるのだろうか。
写真4の撮影日を見ると、2000年2月である。
この時期の日本のインターネットは、ブロードバンドがようやく始まった頃であり、まだまだ幼く、情報も少なかった。
実は確信的な心当たりがあった。

トランス上の銘板(縮ト)DSCN0019.jpg




<写真3:電源トランスの上に打ち付けられている銘板>
**丸い方の銘板の「東京電氣株式会社」とは後の東芝。丸い銘板は、このラジオの製造会社を表すものではない**








当時のラジオ(制度的名称は「放送用私設無線電話」)は、無線設備とみなされ、設置するには当局(東京逓信局長)の「実施許可証」が必要であった。
私の推測であるが、時代が下るにしたがい、ラジオの数が急増し、そんな面倒なことをやっていられなくなった。
そこで、このラジオの場合は、「東京電気のパテントを使用していること」とか、「東京電気製の真空管(商標サイモトロン)を使用していること」を理由に、このような銘板で許可証に代えたのではないかと思う(違うかもしれないが)。四角の銘板下部の「T.E.Cのパテントに基づく」や、写真2の真空管の黒いベースに、「マツダ」(東芝)の刻印が見える(真空管は消耗品であり、そのつど新しい時代のものに取り替えられている)。


愛宕山のNHK放送博物館
東京港区芝の愛宕山の頂上に、NHK放送博物館がある。
愛宕山は、1925年に日本のラジオ放送の本放送が開始された舞台である。
演奏所(放送局)も、送信アンテナも、愛宕山の上に建設された。
なのでここは日本の「放送」に関係する人たちの「聖地」です(私がそう思っているだけかもしれないが)。
昔のそれらは取り壊され、現在はリニューアルされたNHK放送博物館が建てられている。
そこの何階であったか、図書資料観覧室がある。
そこに、「無線と実験」誌(現在の「MJ無線と実験」)のバックナンバーが、創刊号からきちんと整理されて閲覧できるようになっている。
誌の創刊は、ラジオ放送開始の前年、1924年(大正13年)である。
この雑誌、以降綿々と今も元気に刊行を続けている。
大したものだと思う。
以前、会社の別館が神谷町にあったので、放送博物館には何度も行ったことがあり、資料室の中もよく知っていた。


余談、愛宕山に登る山道がいい雰囲気
愛宕山は、古い歴史にもよく登場する。
頂上には、徳川家康の命により祀られた愛宕神社があり、その表参道(に当たると思うが)はたいへん急な長い石段になっている(86段あるらしい)。
「出世の石段」。
徳川家光が正月晦日の芝増上寺参詣の帰途、その階段の上にみごとに咲いている梅の花を見て「誰かあの枝を馬に乗ったまま折ってくる者はいるか。城中への土産にしたい」と言ったという。
何人かが挑戦して失敗し(重傷者も出たらしい)、最後に讃岐丸亀藩の家臣、曲垣平九郎(まがきへいくろう)が進み出て、みごとに枝を手折って下りてくることに成功したという逸話である。
なにしろ将軍家光の御前である。
平九郎、時の全国的スターになったのは当然ながら、その後の人生にどのような出世ストーリーがあったのか、たいへん興味深い。


「男坂」「女坂」
その急な石段は「男坂」と呼ばれており、実はもう一本、石段の右手の方に「女坂」がある。
緑が多く、心が和む、とてもいい感じの上り坂である。
私はこの坂道が好きであった。
山の斜面を回り込むようにして作られた道は、お年寄りでも足が丈夫な方であれば登れるだろう。
車も通れる。
緑が覆いかぶさる山道のような雰囲気があり、途中に「チーズ屋+喫茶店」といった感じの店もあったりする。
機会があれば一度、いい汗をかいてみてはいかがかと思う。
お勧めです!

MJ誌2見開(縮ト)DSCN0147.jpg



<写真4-1:「無線と実験」誌、昭和6年8月号>
**資料室にコピーサービスはない。当時の性能の悪いデジカメで、窓際で明りを採って撮影した**






MJ誌片側(縮ト)DSCN0150.jpg





<写真4-2:同、右ページのクローズアップ>
**あのー、横書きのところは、右から左に向かって読んでくださいね。そうしないと意味不明になりますから**







あった!昭和6年8月号
昭和6年は1931年である。
日本のラジオ放送が始まって6年後の雑誌に、爺様の古ラジオと姿格好が酷似した写真が載っていた。
この雑誌、「無線常識、涌養雑誌」と銘打ってある(写真4-1の左側)。
ラジオが始まって5・6年の時代ですよ。
これを町の本屋で一般の人に売ってたんですかね。
当時、こんな記事を読める人、千人に一人もいないように思える時代ですが・・。
このような、時代の最先端を行くエレクトロニクスの最新記事を、市井の読者が求める。
現代社会の状況からは、信じがたい話である。
おそらくこれは、「ラジオ」という、とんでもなく魅力的なメディア、人を引き付ける途方もない力を持ったメディアを、民衆が渇望していた証拠であると思う。


MJ誌記事(縮ト)DSCN0090.jpg



<写真5:同誌のラジオ製作記事の一部>
**当時、町のラジオ屋さんは、きっとこの雑誌で勉強したんでしょうね**






間違いない。
「田邊のコンドル受信機」とある。
ダイヤル窓の飾り枠の形がちょっと違うが、中身はほぼ同じに見える。
いずれにしろ爺様の古ラジオは、この雑誌が出た年の前後のものである。
あとで調べたら、このラジオを製作した会社は「坂本製作所」。
その販売会社が「田邊商店」(ロゴは「THS」)であったらしい(本店は東京神田小川町とある)。



MJ広告(縮ト)DSCN0066.jpg




<写真6:同誌の「田邊商店」の広告ページ>
**最上部に「THS」のトレードマークがある。これは左から右への現代の読みと混在しているので、時代が少し下ったバックナンバーか**








シャシー背面ロゴ(縮ト)DSCN0207.jpg




<写真7:シャシー背面に、ロゴ「THS]の刻印がある>








シャシー・バリコン(縮ト)DSCN0208.jpg


<写真8:バリコンBOXのケースを外す>
**かなりしっかりと作られたバリコンであることが分かる。チューニングダイヤルをまわすと、回転する「葉」が、固定されている「葉」の間を出たり入ったりして、目的の放送局を探し出す**








コンドル外観(縮ト)Dscn0234A.jpg
<写真9:古ラジオの修復後の姿>
**このラジオ、回路の形式は「高周波増幅付再生検波方式」である。回路形式も作りも、クラス分けは「高級品」だろう。電源ON時はダイアル窓に灯りが点く。箱はそこそこの厚みのある板。天板の奥が蝶番になっていて天板を開くことができる。真空管やヒューズの交換などは上から行う**





スピーカーの音、悪い
この古ラジオに使われていたスピーカーも、完動状態で今もある。
U字形の磁石を使ったマグネチック型であり、写真2の右端上方2つの端子に接続すれば鳴る。
インピーダンスは10kΩぐらいだろう。
ただし音はカンカンしていて悪い。
なので私は、小さな出力トランス(5KΩ:8Ωといったような適当なもの)をその端子に接続して、現在の普通のスピーカーを鳴らしている。
そうすれば、わりあい気持ちよく聴ける。
この時代のラジオに使われた、音の悪いスピーカーが、ラジオ本体の進化とともに、どんどん改良されていく。
人々の「耳」も肥えていく。
オーディオの黎明期とはいつか、を特定するならば、この頃といえるのではないだろうか。

この頃のスピーカーが2種類、私の手元にある。
一つは爺様のマグネチック型、もう一つは米国製のダイナミック型の「はしり」である。
オーディオ発達史の最初の頃を知る、たいへん面白いスピーカーなので、また後日の日記に登場させたい。

マグネチック型のスピーカー。
見れば誰でも理解できそうな単純な仕掛けで、ボール紙のコーンを振動させる。
仕掛けを見ると、思わず笑顔になる愛すべきスピーカー。
音が悪いといっても、能年玲奈と剛力彩芽の声をきちんと区別して再現する。
あのカンカンする音でも、二人の声を聞き違える人はいないから、「けっこういいクオリティー」と言えなくもない。
しかしその音の悪さが、改善に向けての原動力になったに違いない。

爺様の古ラジオ。
源流の水音。
やはりこの時代のラジオこそ、今あるオーディオの原点だと思います。


(いとし子(6)爺様の古ラジオ~源流の水音~ おわり)
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舛金 勲

貴兄のブログを懐かしく拝見し、(私の自分史にも書きましたが)昭和8年(1933)頃のラヂオとの出会いを思い出しました。父は新しいものが好きで、まだ近所で誰も持っていなかった「ラヂオ」を買ったのです。それは木でできた箱で、ピーとかキーッとか音が出ていました。再生式でバリコンで同調をとっていたということが分かったのはずっと後のこと。当然、私はラヂオに夢中になりました。昭和8年12月23日午前8時39分、天皇陛下にお世継ぎがお生まれになったとき、ラヂオは真っ先に全国民(?)に伝えたのです。昭和11年2月26日、ラヂオのニュースは「東京でなにか大変なことが起きた」ことを伝えました。「タンスを寄せ集めてその中に入ってください。流れ弾がくるかもしれません」「ヘイニツグ、ゲンタイニカエリニサイ」私が体験した「2.26事件」でした。
こんな古いものがよく手入れされて残っていましたね!!! 貴兄の家の格式が伺える素晴らしい品ですね。また、愛宕山での確認作業??まったく私の周波数と同期しますよ。私もなにか引っかかることがあると、確かめないと気が済まないタチです。貴兄のそのスタンスに敬服です。
by 舛金 勲 (2013-11-25 13:35) 

AudioSpatial

升金さま。
古ラジオへのご訪問、ありがとうございます。
「2.26」のラジオ放送を、リアルタイムでお聞きになられた由、すごいですね。
1936年(昭和11年)ですから、お父上がラジオを買ってこられて3年後の事件ですね。
戦後のスーパー方式ではなく、「再生式」であったことが、升金少年のラジオへの興味、ひいては工学への興味を倍増したのではないかと思います。
SWを入れるだけ、ボタンを押すだけで終わらず、微妙な手作業が必要。何事も、そういった体験から、昭和の日本を背負って立つことになる少年少女が育っていったのだと思います。
2.26も玉音放送も、これ以上の舞台はない、ラジオの本領でしたね。
ところで、小さなリールに巻かれた6mmテープが10本組の「NHK録音集・昭和の記録」というセットを、だいぶ昔に入手しました。そこに2.26の実際の放送も入っていたように思います。保存状態がよければ再生できるかもしれません。私も聞いてみたいです。
たいへん興味あるお話、どうもありがとうございました。
by AudioSpatial (2013-11-26 02:27) 

舛金 勲

あ、そうですか!? NHK録音集ね!!?? 私のアドレスは上記の通りです。
お手数でもお願いします。
by 舛金 勲 (2013-11-26 13:09) 

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